2005年7月22日:林間学校開校式:長野県民文化会館にて

 

 

C.W.ニコルさんの講演会「イナイイナイbear」

 

この写真、いいでしょ!「いないいない Bear 」してるみたいで!僕は熊が、大好きなんです。熊と初めてあったのは、ほんとに小さなころで、近くの森の中から、じっとこっちを見ていたような気がしました。そんな森があるウェールズで、僕は生まれました。僕はウェールズ人で少数民族だった。ウェールズ人の祖先は、ケルト人です。 ケルト人は元々森の人々です。家畜も持っていましたが、もっと野性的です。どっちかというと日本の文化に近いと思います。そうした文化の中で育って、 学校へ行くために、隣の国のアングロサクソンの国にいった。ここが今のイギリスだった。ウェールズ人は自分だけで、周りは全部アングロサクソン。そのアングロサクソンがいじめにくる。だから、週1回の割合で喧嘩しなくちゃならなかった。侮辱はひとつも許さなかったからね。

狩りと喧嘩と探検が僕のすべてだった。

 

   12 歳で探検家になるんだと決めていました。僕の世代まで探検家はすごく尊敬されていました。 探検家になろうと思ったのは、 12 歳のときにイヌイットを撮った 16 ミリのフィルムを見たことがきっかけです。猟師が大きな槍を手に、細長いカヤックに座ったままの姿勢で、頭上を飛んでいた一羽 のケワタガモを撃ち落とす様子が撮影されていました。それを見た僕はいつかこの人たちに会いに行こうと思ったんです。それからは、北極についての本とか、探検に必要な体つくりを行ってきました。暇があったらカヤックか狩りをし、柔道、レスリング、重量上げをして体を鍛えました。悩む暇なんてないくらい!
 17 歳のとき、僕の学校の先生が、僕の影響で学校を辞めて、カナダに留学したんです。その時にアシスタントとして、僕を呼んでくれたんです。それで北極の探検にいった。

でも18歳のときに行った2回目の北極探検の後、母が無理やり、私を先生にするために学校へ入れました。

そのときプロレスにリクルートされて試合にも出ていたんです。月2回プロレスをやったら、少なくとも月に50ポンドの金が入った。親父は27年間、海軍に勤めたけど、週 10 ポンドくらいの稼ぎだったから、それは大した稼ぎだった。おまけに僕はジャズバーでバウンサー、用心棒もやっていたからお金はありました。 バウンサーとしてはとてもよかったと思うよ。丁寧に「お客さんお引き取りください」と言っていたし…。言うこと聞かない人は殴ってましたけど。でも、その一方で詩や花が好きだったりしたんですよ。とにかく、そのときの僕は困った野郎だった。1年に11回、喧嘩で逮捕されてたね。   ある日、学長に呼ばれて「プロレスは学生としてふさわしいことじゃない」と言われて止めました。もちろん学校を、ね。


  その後は、小さな島で渡り鳥の調査の手伝いをするかたわら、プロレスをしていました。

そ れと、いずれ日本に行って空手を学ぶことも決めてました。

『LIFE』という雑誌で空手の特集を見てから興味を持ちました。すでに柔道はやっていましたが、空手の先生は英国にはいなかったんです。空手を選んだのは…やっぱりその頃、何か探していたんでしょうねぇ。精神的なもの、 " 道 " を探していました。僕の育った町には大正時代から日本海軍の将校や造船関係の日本人たちが大勢住んでいました。 15 才のとき、柔道指南のために講道館から英国にこられた小泉先生から本格的に柔道や空手を習いました」。 その先生との出会いが彼の日本との最初の出会いだったといえる。
「祖父はいつも『本当に強い人というのはやさしいものだよ』と言っていたのですが、小泉先生はまさにその通りの人でした。その時から僕は日本が大好きになったのです」

20歳のとき、越冬隊に呼ばれてカナダへ 19 ヶ月渡りました。それから日本へ空手を学びに来たわけです。22歳のときです。

空手の修行のため 1962 年に来日。日本の自然、特にブナの原生林の荘厳さと美しさに魅せられてしまったんです。
「そこはまるで『エデンの園』でした。はるかな昔、僕の祖先のケルト人もこの感動を味わっていたのかもしれないと思うと涙があふれて止まりませんでした。ぼくの生まれた町では産業革命のために森の木をほとんど切り倒してしまって禿山ばかり、石炭のぼた山だけがぼくが覚えている故郷の現風景だったのです」
1967 年から二年間、エチオピア政府の依頼を受けて、国立公園の建設のために公園長として招聘された。しかし革命によって計画が中断しカナダにもどりました。
1975 年には沖縄海洋博でカナダ館副館長として日本に来ました。そして美しい日本の自然と礼節を重んじる日本人を愛する余り、三年後にカナダ政府技官の職を辞めて日本に定住を決意しました。

でも、 1980 年代のバブルのころの日本人の姿勢や行く末には、がっかりして、絶望しかけていました。 何百年も生きてきた大木をお金のために平気で切り倒してダムを作るなんて、日本の人は一体何を考えているのだろうかと思いました。政府や行政の役人にも、何度も、顔を赤くして、そのことを言いました。でも、日本の発展のためには、しかたがないと言うだけでした。がっかりしました。

その時、彼は故郷ウェールズで森の再生に掛ける人々と出会った。 ぼた山だらけだった故郷の山が人々の努力によって緑あふれる森林公園に大変身していました。その現状を見たとき、ぼくはもう文句ばかり言うのは止めようと思いました。そして彼らに習って愛する日本のために力を尽くそうと決心したのです。

それから、僕は黒姫山の土地を少しずつ買い始め、荒れ放題の森の間伐を行いながら森林の保全に取り組むようになりました。
最初のうちは無理解な人たちから『ニコルは金儲けのために土地を買っている』と陰口をたたかれたりしました。しかし彼を理解してくれる大勢の仲間に支えられて 1995 年、長野県から正式に財団法人と認定されました。いま、アファンの森は太陽の光が降り注ぐ森へとよみがえりはじめています。

 

「アファンの森」については、財団の事務スタッフの河西さんに、映像を交えて説明を受ける。

河西さんは、東京に生まれ、環境保護の仕事をしていたが、ニコルさんの考えに共感し、ニコルさんの学校( 東京環境工科 専門学校 ) で、自然と環境についてさらに深く学び、この黒姫のニコル財団「アファンの森」で働くことになった人です。東京の子供たちの置かれた立場や、心理をよく把握していて、年齢も若く、子供たちに話しかけるような口調で、「アファンの森」について説明してくれた。
「アファンの森」の入り口
一見緑に覆われているように見えながら、生態系としてのバランスを崩してしまった日本の森をなんとかしたい。美しかった本来の日本の森に戻したい。そんな気持ちが高まっていたころ、C.W.ニコルは、自分の故郷のウェールズで、石炭の採掘とその後の廃坑のために荒れ果てていた森が、緑を回復しようとする人たちの運動によって、みごとによみがえったことを知ります。「森は生き返る!」そのことに感動したC.W.ニコルは、長野県に小さな森を買い、「アファンの森」と名付けて、自分の足元から、森の再生活動をはじめました。2002年5月31日、C.W.ニコルはこの森を寄附し、アファンの森は、"財団法人 C.W.ニコル・アファンの森財団"の森となりました。
荒れ果てた森は、もともとそこにあったはずの木を植え、手入れをすることで少しづつ息を吹き返してきていきました。17年たった今では、春には色とりどりの花が咲き、夏にはさまざまな種類の緑の木々が風に揺れる美しい森になっています。
森には、多くの生き物達がかえってきました。賑やかなさえずりを聴かせてくれる鳥たちは93種類以上、昆虫は1000種類以上。そしてツキノワグマの親子が木登りの練習にきたり、大好物のハチミツを食べにきています。

蘇えった美しい森

森を見守るふくろう

大地に息づく蛇

森の主ツキノワグマ

森を讃えるオオヨシキリ

森を彩る美しい毒きのこ

森のかぐわしい姫ヤマザクラ

河西さんは、森の大切さ、森のやさしさ、森の美しさについて、話してくれました。

林間学校の最初の企画として、有意義で、感銘深いひと時を過ごす。

1・整列指導:玉置先生
2:司会:田中先生
3:開校式挨拶=鈴木教頭
4:ニコル氏紹介:久保田先生
5:歓迎の花束=1G青木杏里さん
6:歓迎の挨拶=1A 吹上由衣さん
   (学校案内・今までのニコル紹介の校内新聞・読書感想文などともに、シンボルツリーの菩提樹の一枝を渡す)
7:講演開始(ニコルさん)
8:休憩
9:アファンの森の紹介(河西さん)
講演終了後(3時30分)、3班に分かれて、各ホテルに入る。

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